5.21.2007

The Pope of Slow Food


スローフードの創始者で協会会長のCarlo Petrini氏の講演会が土曜日にシカゴであった。ここのところスローフードづいているが、本当に偶然である。新著のプロモーションの一環ということだが、お話は大体基本的なスローフードの理念と活動の紹介。先日の授業でスローフードシカゴ支部長からより詳しくお話を伺った私たちにとっては初めて耳にするというようなことではなかったが、Petrini氏のユーモラスでチャーミングな話し振り(それもイタリア語での)にすっかり引き込まれてしまった。特に印象的だったのは彼がはっきりと「消費者 (consumers)」という概念は嫌いだと言ったことである。ここ数十年の間に突然現れた言葉で、それは大変傲慢で一方的で、権力的であると。わたしたちは消費者ではなく、「共同生産者 (co-producers)」にならなければならないとのことである。やはり生産者との連帯なくして、食のシステムを変えることは不可能だし、なにより食の快楽はありえない。

広い会場を見渡して気づかざるを得なかったのが、聴衆の年齢、人種、性別構成である。圧倒的に白人の中高年層、また女性が多かった。これはPetrini氏、またシカゴ支部長のお話にもあったスローフードに対する誤解に深く関連していると思う。Petrini氏の新著の副題は"Why our food should be good, clean, and fair" (なぜ私たちの食べ物はおいしく、きれいで、そして公正であるべきか)であるが、このfairという概念が通常、美食といったときに連想されることからは正反対なのである。

80年代に運動が誕生したときにスローフードは保守とリベラル、双方から攻撃をうけた。イタリアにおいては歴史的に「料理アカデミー (l'Accademia Italiana della Cucina) 」という、富裕層・著名人を中心とし政治的にも強い影響力をもつ団体が美食という概念を代表してきた。これに反してスローフードは、同じく食の快楽を追求しつつも左派にそのルーツを持っている。しかし左派の多くの運動家たちには食の快楽というアイディアは馴染みがないどころか、ブルジョア的退廃としてとらえられていた。質の良くおいしいものを食べるということは、少なくとも最低限のレベルにおいて、すべての人間が享受すべき権利であると私も思う。大げさにいえば、スローフードはこの当然の権利に対する左右からのイデオロギーに挑戦しているのではないだろうか。

これは私のクラスで気づいたことなのだが、リベラルな学生ほどファーストフード批判に懐疑的な傾向があった。理由は、多くの低所得者層にとってファーストフードは食事の数少ない選択肢のうちの一つであるのに、それを自分たちのような中流階級の学生が不健康だ、非衛生的だと非難するのはあまりに一方的ではないか、というものである。確かに圧倒的に恵まれた立場にいる者が、そうではない人たちがなけなしのお金をはたいて手に入れた食べ物についてああだこうだ言うことの高慢さにとても繊細に気づいていると思う。しかし、ではそのまま現状を放っておけばいいのか、とも思う。中上流階級である自分たちはファーストフード(だけでなく、農薬や化学添加物などを使って大量生産される食品)の弊害を知っており、おそらくそれを食べることをなるべく避けているにも関わらず、貧しい人たちがそれを食べるのを「彼らにはそれしかないのだから、何も言うまい」と見守っていることは、「奴らにはそれでいいだろう、食べさせておけ」と言うことと、実はあまりかわらないのではないか。

貧しい、飢えている人たちに配られる食事はいつもカロリー単位で表現されるけれども、例えば国連が提供する難民キャンプでの食事は、日本で普通に売られているドッグフードよりもひどいものだという話をどこかできいたことがある。飢えている人々に対してとにかく量を確保するというその必然性はわかるのだ。わかるのだけれども、人間の食べる権利は量だけでなく質においても尊重されなければならないのではないかという疑問を、実はずっと以前から、持ち続けている。

いずれにしろ、会場の聴衆を見渡して、これはスローフード運動の今後の最大の課題になるだろうと思った。今日明日の食事の心配をしている人たちに、どうやってこの運動は訴えかけていけるのか。食のシステムを変えるという長期的な目標の実現過程において、どうしたら現在一番その弊害を被っている人々の緊急の要求に応えられるだろうか。

非常に考えさせられ、なおかつ楽しい講演会であった。最後にPetrini氏と一緒に写真をとれたことは、一生の思い出になるだろう。なにしろスローフードの「ローマ法王」とも称される人であるのだから。