6.04.2007

2007S/S Comme des Garcons: Politics of Formanism


ファッション批評という分野は非常に専門化されていてとても私などが口出しできるような雰囲気はない。特に川久保玲とComme des Garconsについては、門外漢が何か言おうものなら、ファッションセンスどころか哲学性の欠如の問題として攻撃されかねない。何十年か前の吉本隆明と埴谷雄高の論争はComme des Garconsの神格化に、結果的に、貢献したのだといえよう。そのようなリスクを知りつつ、敢えてこれについてはどこかで書いておきたかった。2006年10月のパリ・2007春夏コレクションにおけるComme des Garconsである。主題はキュビズム、メイン・モチーフは日の丸であった。

このコレクションについての各新聞社の記事は概ねとまどいをはらんでおり、読売は「デザイナーの現状認識かそれとも希望か」、毎日は「政治家への最大の皮肉か」といったところ。朝日にしても歯切れが悪く、白塗りメークやくずれた日本髪によって「近代日本の西欧化のちぐはぐさを揶揄」し、「批評性を保ちつつも日の丸に象徴された近現代性を引き受けようとする試みだった」、さらにこれは「日の丸や日本の美しさを安易に語ることの警鐘でもある」としている。果たしてそうだろうか。朝日の記事は何か本当に言いたいことを言えずに、なんとかComme des Garconの批判だけは避けようと必死なようにも見える。一方ファッション雑誌の代表格Vogue Japanは、そのモチーフの読み解きには参加せず、「何も日の丸のためにというばかりでなく、日本は国をあげて、もっと『コム デ ギャルソン』を応援してもいいのではないだろうか」と締めくくっている。

このコレクションについての川久保自身の言葉にやはり注目せざるを得ない。「デザインとして完ぺきな美しさを持つ日の丸に改めて取り組みたかった」、「日の丸は究極のシンプルな美しいデザイン」、「(その美しさにも関わらず)送り手も受け手も素直になれない」。実際日の丸モチーフのTシャツには"radiant nature(輝ける自然)"、"perfect beauty(完璧な美)"、"simplicity(シンプルさ)"などの文字が踊る。言葉が発せられた文脈がわからない以上断定は避けるべきなのかもしれないが、しかし結局川久保の言っていることは単なる形式美の礼賛にすぎないのではないか。テーマがキュビズムということだから、日の丸を脱/再構築するという試みだったのかもしれないが、できあがった服を見る以上、私にはそれは全く感じられない。「いろいろあるにも関わらず、日の丸はやっぱりデザインとして美しい」ということは脱構築なのか。

つまるところ、川久保のやろうとしたことは日の丸の非政治化なのだと思う。白地に赤い丸という、その形のみについてただ美しいといいたかったのだろう。その形が持つ意味を一切問うことなしに。

しかしその行為自体の政治性、—意味を問わず日の丸のデザインを美しいと言うことの政治性— について、彼女が一体どう考えているのかがわからない。もしなんの政治性も持たないと思っているのだとしたら、あまりにも浅慮といわざるをえない。あえて今、戦後史上もっとも戦前体制の思想に近づいている政権下の日本において、日の丸の美しさを、たとえ純粋に美学的な見地からであれ、謳うことが政治的でなくて一体何であろうか。新聞記者たちはなぜこれほどまで寛容に、「川久保特有のアイロニー」とか「安易に美しいと言うことへの警鐘」などと —彼女自身の言葉を曲解してまで— 庇うのか。

意味を持たない純粋な形式美というものが本当に存在しえるのかという疑問が沸く。確かに意味は形を作った者の意図に反して後付けされうる。しかし同時に意味は形を固定しもするだろう。また当然ながら形自身も意味を喚起する。川久保は日の丸の美しさに対するためらいを「素直ではない」というが、おそらく彼女にとっては、逆に日の丸を迷わず美しいと言い切る右翼も「素直ではない」のだろう。結局「素直」とは、あらゆる意味や政治性に無関心な態度ということである。ただしその態度は社会的真空状態の中にあるのではない。ある社会的・政治的コンテクストの中における無関心は、それ自体が政治的な意味を持つ。

意味は形を作った者の意図に反して後付けされうる、と書いた。2007年2月、日本人女優として49年ぶりのノミネートを受けた菊池凛子は、アカデミー賞授賞式に旅立つ前の成田空港での記者会見にComme des Garconsの日の丸染め抜きコートを来て現れた。服装について尋ねられた彼女は「日本人としての意識を持ち続けている」と答え、翌日各紙の見出しには「凛子、日の丸を背負う」の文字が踊った。川久保のデザインは発表から数ヶ月、すでに「美しいシンプルな造形」ではなくなっていた。