風評被害について

(4月18日付ポスト On "Fuhyo Higai" (Harmful Rumor) の日本語訳)

日本の食の運動における消費主義とナショナリズムを研究している学生として、食に対する今回の震災、とくに放射能汚染の影響が非常に気になっている。とりわけ被災地の農家や漁業者への同情を表すために「風評被害」という言葉が頻繁に使われていることには不安を感じる。私は農家や漁業者の方に心から同情し、同情のあまり怒りまで感じているのだけれども、それでもこの「風評被害」という言葉で私の真摯な気持ちを代弁されることには抵抗がある。


福島原発周辺産のほうれん草と生乳から暫定基準値を超える放射性物質が発見されたことを受けて、3月21日、政府は福島、茨城、栃木、群馬県からのほうれん草とカキナ、福島県からの生乳の出荷停止を指示した。出荷制限されたのはこの3品目であったが、制限外の他の野菜についても市場は敬遠し返品などが相次い だ。その後出荷制限は品目が追加されたり、また一部解除されたりしているが(2011年4月18日付の出荷制限、制限解除品目一覧)、出荷制限のあるなしに関わらず、上記4県からの生産物に対する消費者の敬遠は広がっている。地震と津波によりすでに大きな被害を被っている農家はさらに困難な状況に追い込まれている。

3月28日、上記4県に加え、埼玉、千葉、東京、神奈川の計8都県の知事は合同で政府に対し、基準値緩和と県単位での出荷制限の見直しを要請した。実際に放射性物質の拡散は風向きによって左右され、同県内であっても放射能汚染レベルに違いが見られていた。このため4月4日、政府は、市町村ごとのモニタリングが可能である場合には以後出荷制限を市町村単位で行うことを通達した。この新しい方針により、4県のうちの一部が出荷制限を解除され、かわって千葉県の一 部が新たに制限リストに加えられた。しかしながら、28日の知事による「国際的にみても厳しすぎる」という主張にも関わらず、基準値の緩和は見送られた。

消費者によるこれらの県の生産物への敬遠は今も続いている。

これは4月12日に横浜市で私の友人が撮影した写真である。値札には「広告の品、12・13日限り、安心・安全の野菜、ほのかな苦みがお鍋におすすめ、茨城 産、水菜、69円」とある。友人はなぜこれがセールであったのかについての断定はさけつつ(単に仕入れ時の好条件のせいかもしれないし、あるいは鮮度に問 題があるのかもしれない)、しかしやはり、水菜は通常140円前後であることから、この価格は「あり得ない」と言っている。


彼女はもう一枚、「安心・安全」攻撃の写真も送ってくれた。あまりにヒステリックすぎて、彼女にはほとんど冗談のように感じられたそうだ。

「安心・安全」がなぜここまで徹底的に、馬鹿げているくらいにまで、宣伝されなければならないかを問うべきであろう。私には答えは単純であるように思える。つまり消費者は、「安全」とされている食品の安全性について懐疑的、少なくとも不確かに思っているのだ。人々は公式に定められた安全基準を信頼していない。

この文脈において、風評被害という言葉が示唆するのは消費者の過剰反応である。放射能レベルは「基準値以下」であり、よって「安全」であるのだから、消費者 は不合理にそれらの食品を買い控えるべきでない。「風評被害」という言葉が使われる文脈では、さらに消費者に対し、困難に直面している農家を支えるために 被災地域の野菜を積極的に買うように呼びかけられる。この記事の一番上に載せた写真は3月27日に撮影された。写真の中のポスターには「茨城を応援しま す。茨城県八千代地区産、丸城出荷組合のレタス、検査・測定を行い、安心・安全に提供できるものを販売しております。どうぞご安心してお買い求めください。」とあるのが見える。

ここで政府がそれによって食品の安全か否かを決める「基準」に関する問題点を指摘しておきたい。本来日本には食品に含まれる放射性物質の基準はなかった。3月17日厚生省の通達により、それ以降、 2010に原子力安全委員会によって示された飲食物摂取制限に関する指標を暫定基準値とし、食品の放射能汚染の検査、また出荷、摂取規制を行うこととなった。この指標値は現在も暫定基準値として使われている。8都県の知事はこの値を厳しすぎると主張したが、ほんの少し数字を比較してみると、この主張が非常に疑わしいものであることがわかる。たとえば、チェルノブイリ原発事故以 降、日本は放射性セシウム濃度(セシウム134とセシウム137を加えた値)が370bq/kgを超える食品輸入を禁止している。一 方現在の暫定値では放射性セシウム基準は500bq/kgに設定されている。また飲用水について見ると、日本はこれまでWHO基準に従い、ヨウ素131、 セシウム137ともに10bq/lという基準を採用していた。しかし3月17日の厚生省通達以降、ヨウ素131、セシウム137の基準は、それぞれ 300bq/l、200bq/lにまで引き上げられている。これらの事実は基準というものが、それに従って定められる安全性というものが、いかに恣意的で あるかを示している。しかし、枝野官房長官は、基準値はもしその食品を一生にわたって食べ続けた場合に健康に影響がでる場合があるという前提のもとに定められているのであって、たまたま そういう食品、基準値を超えてしまった食品でも、数回食べたからといって ただちに影響があるわけではない、という旨の発言を繰り返している。一部の専門家はこの公式見解に従い、人々をパニックにならないようになだめ、さらにはもしものときのためのお役立ち知識として、食品についた放射性物質を「よく洗う」ことで落とせると教えてまでくれる。

分かりにくい、むしろ欺瞞的な情報に翻弄されて、もし現在妊娠している私の友人や、授乳しているもう一人の友人を含めた消費者が、100%確信できないものに「あえて手を出せない」のだとしたら、わたしはそれを不合理な過剰反応だとは決して思わない。

生産者は本当に大変な困難に直面している。そして多くの人々は心から同情している。しかし、生産者を支えなくてはならないのは消費者ではなく、東京電力であるということを強調したい。これは根本的に賠償問題である。自身でコストとリスクを負う人々の良心、あるいは勇気、によって解決されるべき問題ではない。 風評被害という考え方は生産者救済の責任を良心的な消費者にこっそりと転嫁しようとする。これはいわゆる「倫理的消費」の根底にあるのとまったく同じ論理 である。

倫理的消費とは、個人の利己主義的な興味によってではなく、その消費行動が広く外部の社会的・政治的問題に 及ぼす影響を意識することによって促されるタイプの消費である。社会的・政治的問題には、例えば環境破壊、労働者搾取、経済のクローバル化に伴う問題、動物の権利、などがあげられる。非倫理的であると思われる商品のボイコットから、倫理的であると思われる商品の積極的な購入まで、倫理的商品は様々な形態を とる。ホール・フーズ・マーケット(北米を中心に展開するオーガニック食品を中心に扱うスーパーマーケット)での買い物客の調査を通じて、ジョゼ・ジョンストンは、倫理的消費の最も新しい形である「市民ー消費者ハイブリッド」の出現を、ネオリベラル資本主義の社会不平等と環境悪化、それに付随する市場による解決方法の崇拝、に対する反応/反発として理解できると指摘している。倫理的消費の機会の増大、つまり、個人が消費の瞬間において環境と倫理に気を配る責任があると感じる風潮、は「ネオ・リベラル国家が持続可能な方法による社会的再生産を確保する責任から距離をとることに伴う、社会的・環境的懸念の私的領域化」が起きていることをを示してい る。 (Johnston 2008 "The citizen-consumer hybrid: Ideological tensions and the case of Whole Foods Market" in Theory and Society 37: 262).

ジョンストンの指摘は日本の現状にもあてはまる。生産者を支援するために、安全ということになっている食品を買うよう消費者に奨励するのは、社会的懸念の私的領域化のまさに一例である。

ここで同時に、恣意的な基準を用いて被災地の生産者に生産を続けさせるということの不正義についても強調しておきたい。4月8日、 原子力災害対策本部は稲の作付け制限について、土壌の放射能汚染基準値を5000bq/kgとした。 汚染レベルが5000bq/kgを超える水田については稲の作付けは禁止されるが、それを下回る水田では生産者はコメを作り続けることができる。 (参照: 4月12日付、福島県内各市町村の農用地土壌における放射性物質の測定結果) 原子力災害対策本部によれば、この数字は土壌中の放射性セシウムの10%が玄米に移行するという想定のもとに試算されている。したがって厚生省の食品摂取基準である500bq/kgから逆算し、土壌汚染の最大基準値が5000bq/kgに設定された。つまり、この基準は消費者側の利益(それがたとえ不満足 なものであっても)のみを参照して定められており、生産者側の利益は全く考慮されていないのである。想像してみてほしい。5000bq/kgの放射性物質 を含む土地の上で、作付けから収穫までほぼ毎日、約160日間作業し続けるということを。これは汚染土壌への絶え間ない直接接触のみならず、汚染物質を含 む埃を吸い続けるということを意味し、内部被曝による深刻な健康被害の恐れが生じるということである。

町中の猫がおかしくなったのを見て、水俣の人々は魚が変だということに気付いていたにも関わらず、魚を食べるのをやめなかったという。それが彼らの生活だったからだ。 チェルノブイリの立ち入り禁止区域にある家に戻り、今もそこに住み続けている人々もいる。それが彼らの家だからだ。危険を知りながら、それでも汚染された土地を耕し続けようとする農家もいるだろう。それは生活であり、歴史であり、文化であり、愛着であり、そしてつまるところ、それが人間というものなのかもしれない。しかしそのことは決して、政府の、農家に対して考えられえる危険性に関するきちんとした情報を提供し、危険な作業に従事することをやめさせるようにする責任を、また東京電力の彼らに賠償する責任を、免れさせることはない。決してである。

風評被害の喧伝の下で、消費者に農家を支援するようにすすめ、農家に頑張るように励ますということは、本来責任を負わなければならない者によって対処されるべきことをあいまいにしてしまうごまかしでしかない。

本来の意味での風評被害を防ぐ唯一の方法は、私は食品と土壌の放射性物質基準を真に厳しく、少なくとも国際的基準と日本国内の過去の基準に照らして矛盾のな いレベルに設定し、そしてそれに基づいた検査を徹底させ、市場に流通している食品に対する消費者の信頼を回復させることしかないと思う。そして、このことは厳しい基準により、土地を耕し、農産物を売ることを断念せざるをえなくなる農家に対する誠実で実質的な賠償とセットでなければならない。誠実で実質的、ということで私が意味するのは、被害を受けた農家は、期待される今期の収益分のみならず、放射性物質のとてつもない半減期を考えれば、今後全ての年 数分の収益についても支払われるべきだということである。それでも、私たちは、土地と生活をあきらめなければならなくなった農家の尊厳を賠償できる方法は どこにもないのだということを、決して忘れてはならない。