10.29.2012

アイアンシェフ:料理の鉄人復活に思うこと

かつて一世を風靡した「料理の鉄人」が13年ぶりに「アイアンシェフ」として復活したということを聞き、早送りながらざっと視聴してみた。繰り広げられるハイ・キュイジーヌの世界、確かに美味しそうだし圧倒される。しかし、これを今、フクシマ以後にやることの意味は一体何なのかと考えてしまった。例えば食材は放射能汚染検査されているのだろうか。仮に検査済みだとして「不検出」のみを使っているのか。これから続いていくにあたって、かつては紛うことなき最高級食材であった「福島の桃」がもし取り上げられるとしたら。キノコ、海藻、魚介類、栗、など放射能汚染の影響を特に受けやすいことが分かってきた食材であったら。

もはやこのような最高級食材、最高級料理を楽しめる人など、ただでさえ下り坂の経済情勢に震災によって追い打ちをかけられた日本にどれだけいるのだろう。毎日のテーブルが放射能におかされているかもしれないという不安の中、もやは現実には「美味しいもの」をめぐってお祭り騒ぎなどできないから、せめてテレビの中で夢をみるということなのだろうか。

 友人に、料理の鉄人が海外に広く輸出されたコンテンツであることを考えれば、この時期の復活は日本の食の安全性を暗に国内外にむけてアピールするためのものではないかと指摘されはっとした。3・11後、2011年7月から突如始まった感のいなめない農水省による「日本食文化の世界遺産登録」に向けたプロジェクトも思い起される。世界遺産登録検討会には「食育」に関わるメンバーも多く入っている。「食育」がすすめる「地産地消」によって、福島県の学校給食は福島県産のものを使うという方針が示され、食品の汚染を心配する保護者を中心に反対運動も起きている。つい最近(になってやっと)いわき市ではこの方針を凍結したというニュースもあった。

広告代理店を通じた後押しがあったのか、あるいは偶然なのか。いずれにしてもこの時期の「料理の鉄人」復活には複雑な思いがぬぐえない。

10.11.2012

NHKスペシャル シリーズ日本再生「"食の安心"をどう取り戻すか」

放映後ほぼ1年たってようやくだが、2011年10月22日放送のNHKスペシャル「シリーズ日本再生第2回 "食の安心"をどう取り戻すか」を視聴することができた。ずいぶん時間が経ってしまってはいるが、非常に問題の多い「狡猾な」作りの番組だと思ったので、ここに視聴記録を残しておく。

まずこれは番組制作にあたっての基本姿勢、あるいは条件や圧力によるものだと思うが、番組を通じて東電の賠償責任、政府の補償責任について一切触れていないことに強い違和感を禁じ得ない。東電のトの字も出てこない。さらに暫定基準値についても(これは昨年なので500bqのときだが)問題にしていない。

代わりに多用された言葉は風評被害である。私はそもそも風評被害なんてものがあるのか、「風評被害」とされる原因によって落ちた売上の分まで含めて東電は責任を負うべきと考えている。これは「風評被害」という言葉が公式文書に初めて載った時の考え方、決まりでもある。つまり安全性というものは一定の基準、ラインを設けて、それを超えた完全にクロのものは原子力賠償法で賠償の対象になる。ところがそのラインを下回った、けれど売れないグレーのものについての経済的損害をどうするかという問題である。たとえクロでなくてもグレーのものについても加害者が賠償すべきと、加害者の責任と生産者の救済の道を明記しているのが女川や泊、六ヶ所などの民事協定だ。(関谷直也『風評被害』)ところが福島原発事故以降、このグレーのものについて誰が責任を負うべきかといえば消費者ということになってしまった。クロではないのに買わない消費者が非合理的、身勝手と責められる、それを言い換えたのが現在使われる「風評被害」という言葉である。クロではないんだからシロだろう、と。

これは東電という言葉が一回も出てこなかったことと表裏をなすが、番組の中での消費者についての比重の大きさに関連している。消費者がするべきことはもちろん沢山あるし、責任もまったくないわけではない。消費者というのは本質的にエゴイスティックな主体であるから、とにかく安くとか、その次には安いだけではダメとか、そうした気まぐれが生産者を長年にわたって追い込んできたことは事実である。しかし、そのことをこの文脈でこういう形で持ち込んでくるのが、まず私の感じる第一の狡猾さである。

番組終わりで一人の出演者が、基準値より低くても心配な消費者は、CSA的な感じで生産者と一緒になって放射能を測定していったらいいのではということを言っている。生産者とともに安全性の確保に取り組むとは一見いい話に聞こえるが、裏を返せば、それだけ安心が欲しいなら消費者は自分でお金と時間を負担するべきということだ。当然、その余裕がないけれど心配だという消費者は置いてきぼりになる。そして最初に書いた通り、その負担は消費者だけでなく生産者も本来負うべきではないものだなぜ被害者である生産者がそこまでしなくてはいけないのか。東電や政府がずるずるごまかしているから、自分でやらなきゃしょうがないという現実はわかる。けれど現実にgive inし続けて本質論をあきらめることは、私は法的にも倫理的にも問題だと思っている。(それこそが、とりあえずはその現場に生産者としても消費者としても直接の関わりをほとんど持たない私のような人間が言い続けなければいけないことだとも。)

番組内では生産者と消費者がつながって〜というような、全体的に前向きで明るい雰囲気を通しているが、実際にはこういう論調は生産者と消費者の対立を余計深めるだろうと私は予測する。そんな余裕はない人の方が圧倒的に多いからだ。消費者とすればそこまでやらなきゃいけないの、だったら福島のものは買わない、となる。生産者とすれば自分たちはそこまでやってるのに買ってくれない、となる。現在の風評被害という考え方の問題の根本にあるのは、本来の加害者の賠償責任を問わずにこうした生産者と消費者の対立を煽る構図になっていることだと私は考える。

番組ではさまざまな事例を扱っていたが、漁業については特に疑問の多く残る内容だった。魚をこうしてとってます、漁師さんはこういう顔です、というのは、普通だったら意義ある情報だが、今問題なのは全く別のことだ。海洋汚染マップを見ればわかるとおり、三陸沖の魚については、多少乱暴な言い方をすれば、漁師さんがいい人かどうかなんて全然関係ない。熊本のお客さんはあの漁師さんがとったものなら放射能なんて気にならないと言っていたが、これは福島原発事故以後の一般的な感覚ではない。シカゴ郊外の日系スーパーの鮮魚売り場は昨年からどこでとれたものなのか、地図と一緒に表示するようになった。そういう問い合わせが多いのだろうと想像している。番組では放射能汚染について情報も付けていると短く言っていたが、数値は出さず「検査書付き」とあるだけだった。これは漁師側の問題ではなく、番組の作り方の誠実さの問題だと思う。そうしたrepresentationの仕方によってこの一連の漁業のシーンは、また生産者と消費者をつなぐ、しかも放射能問題はほぼ無視してつながるということ、結局「絆」の話をしているのだと思わざるをえなかった。生きて届いたカニをいただいて食のありがたみを知るとか、漁師のおばちゃんが郷土料理をつくるとか、そういう一つ一つのいい話も、そもそも番組の主旨であるはずだった原発事故以後の食の安心という根本がすっぽり抜けていて、ただただハートフルにおさめようとしているという印象だった。

それから細かくなるが、多数の間違い、ミスリーディングな内容も大変気になった。まずある生産者と消費者のグループが一緒に放射能測定をするという話。出てきたのはガイガーカウンターで、それをほうれん草の上に乗せて「計った」「安心」と言っている。食品の放射能汚染はガイガーカウンターでは計測できないこと、空間線量による外部被曝と飲食、吸引などによる内部被爆とではまったく違うことといった、もう今となっては多くの人にとって常識ともいえる(悲しいことに常識になってしまった)情報が理解されていないのでは、と思わされた。初めに述べたようにこれは1年も前の放送、取材はそれより前であったろうから、専門家ではない一般人がこうした知識を持っていなかった事自体は何ら不思議ではない。それよりも、そうした専門知識へのアクセスを当然持っている公共放送の作り手が、こうしたシーンをそのまま放送するという問題、そこにはこれを美談として提示したいという恣意を感じた。

また番組の最初の方に紹介されたたさまざまな新技術。まず非常に簡単に食品の放射性物質が計れるという機械だが、よく聞いていたら100bq以下は計れないとのこと。現在日本の基準は100bqに厳しくなったので、もちろんサンプル検査なので出てきてしまうものもあるが、今となっては基本的には流通しないはずのものを計れるというだけになってしまった。(そこで100bq/kgという値はどうなのかという議論にはならない。)それからMRIの技術を利用するというものはやはりガンマ線しか計れない。ということはストロンチウムは検出できない。もちろん小出裕章先生のおっしゃる通り今一番気にすべきはセシウムなので、セシウムが検出できるのはとりあえず素晴らしい。だが、もし内部被曝した場合に甚大な影響があるストロンチウムは、牛乳や骨ごと食べるシラスなどの魚に移行している可能性が高いので、それが計れないのであれば、まるで夢の技術のように喜ぶスタジオの反応にはちょっと待って、という気持ちにもさせられた。またセシウムを吸着するプルシアンブルーの技術。是非どんどん実用化して海水や地下水にたれ流れていくセシウムをどうにかして欲しいと思うが、そこで今度は吸着したセシウムとプルシアンブルーのカスをどこに捨てるのかという問題が出てくるはずだ。何でもできることはどんどんやった方がいいし、色々な技術も開発して実用化してほしいと切に願うけれど、これで万事解決!とは決してならないんだということを合わせて示すべきではないかと、放射能汚染の深刻さとはそんなものじゃないということを言わないのは、また狡猾だと思った。

それからこれはたびたび出てくるのだが、食品の放射能汚染基準についての国際比較。
EUとアメリカが高いという風にいつも出されるが、これも大変不正確である。以前ここにも書いたけれども、基準というのは全体の食料のうちどれだけのものが汚染されていると予想されるかという指数も計算式に入っている。EUの基準は基本的に輸入される食品を想定しているので10%、あれこれ色々口にした中の1割が汚染されているという予測に基づいている。よってたまに食べるものが多少ひどく汚染されていてもまあ、食生活全体でみたら少ないだろうということである。一方日本の基準は自国で放射能災害があったわけだから50%、EUの5倍だ。恒常的に汚染食品を食べることになると予測されるから、食品1つあたりの基準が一見低く見えるのである。さらにいえば、EUも福島以後、日本からの輸入食品については基準を厳しくして、他の1250bqから500bqに引き下げている。ヨーロッパでは日本産の食品をそれほど食べることはない、試算だけでいえば日本の5分の1、であろうにも関わらず、昨年の日本と同様の基準になっているのだ。

少々話の本筋とはずれるが、"アメリカのCSA"と、いかにもシンクタンク風の女性が紹介していたが、日本でも同様の取り組みは長い歴史がある。CSAみたいに「かっこよく」ないだけだ。食農体験とか食農教育は農水省自体も後押ししていたし、提携、産直、とよばれる生産者から消費者に直接送られてくるシステムも生協や消費者団体を軸に各地に多数ある。アメリカでは!というプレゼンテーションは、不正確、あるいは不勉強であるし、こうしたところにも番組の作り手の姿勢ともいえるものを感じてしまった。

食のありがたみ、生産者とのつながり、ひいては私たちの生き方、といった話は無意味だとはいわないが、でも結局そこなのだと思う、放射能汚染というものは。そういう改悛や実感、決意がまったく意味がなくなってしまう、もう全て打った切ってしまうような全然別次元の悲劇なのだ。福島の事故がおきてから私自身もときどき考えるのだが、ここまで私もずいぶん頑張って通ってつながってきた農家の畑にもし放射能が降り注いだらどうするだろうと。あの農家は本当に信頼してる、感謝してる、支えたいし、そして実際すごく美味しいことは変わらないだろう。けれどちゃんと計測されて、しかもそれが本当に汚染されていないと確認できない限り、私はここまで育ててきた関係にもかかわらず、もうあの農家のものを買うことはないだろうと思う。そのことを想像するだけで胸が締め付けられるような気持ちになる。その悲劇を直視せずに、汚染という問題の中に情の話を適度にまぜて、全体として「いい感じ」に仕立て上げている雰囲気が、アナウンサーの如才ない調子のよさとあわさって、何とも後味がわるく残った。