Slow Food: Delicious Time


今教えているクラスにスローフード協会シカゴ支部の方をゲストスピーカーとしてお招きした。学生には前もってスローフード運動の創始者Carlo Petriniの"Slow Food: The Case for Taste"を読んでの感想と質問を書かせたのだが、その半分はスローフードに懐疑的・批判的で、中にはゲストの方に対してあまりにも失礼というようなものもあり、お見せするのがためらわれるほどであった。それでもゲストの方にはお約束していたし、また学生たちもそれを承知で敢えて書いていることなので、恐縮しながら前日にお送りした。実際ゲストの方も憤っておられて、ただ、スローフードの考え方を広めるためには必ず出会う誤解と偏見だから、こうして送ってもらって自分たちも勉強になったとおっしゃってくださった。そんなわけで授業が始まるまで、実は内心ひやひやしていたのである。

ゲストの方と連れ立って教室に入ると、賢い、そして若い学生たち(18から20歳前後である)は相変わらずの神妙さを装った顔つきで座っていたが、「自分の子供時代、オーガズムを感じるほどに何かが美味しかった初めての思い出(your first orgasmic gastronomic memory)はありませんか」という質問でお話が始まると、途端に心からの笑顔に変わった。実家の近くで100年以上も続いているレストランでの食事の話、家族と行った海辺の町で食べたシーフードバーベキューの話、そういうことを思い出しながら語る学生たちはほんとうに楽しそうで、私など8週間も彼らと過ごしてきたのだが、え、こんな顔するのか、と驚いてしまったほどである。

スローフードは世界中にある数々の運動の中で、唯一「快楽」を 目標にしている運動であるとのこと。食事は快楽の体験であり、その体験は知的で責任を伴うべき(responsible and intellectual experience of pleasure)であること。目標はただ美味しいものが食べたいということにつきるのだが、そのためには環境や社会に目を向けなければそれは得られないこと。スローフード運動はオーガニック運動でも、ベジタリアニズムでも、健康食運動でもない。野菜、肉、油、甘いもの、カロリーが高いもの。何であっても、それが環境に配慮した持続可能な方法で、手間ひまをかけきちんと作られており、まさにそのことによって美味しいのであれば是非とも食べたいと思うこと。つまりはエコ・美食(eco-gastronomy)であること。そうやって一つ一つ説明していただくことに学生たちは乗り出すようにして聞き入っていた。

スローフードは上流階級のエリート主義的な運動ではないかという質問にもお答えいただいた。これはスローフードそのものに懐疑的な学生からも、理念としては賛成するけれどもという学生からも多かった質問である。ゲストの方によると、どんなに強調してもしきれないほど、それはまったく誤りだとのことである。ファッションとしての美食ではなく、農業の方法と食品生産・流通のシステムに注意を払い、地元の新鮮なものをなるべく地元で消費することがエコ・美食の本質にある。小規模・零細農家に支払う金額は、その労働に見合ったものでなくてはならない。さらに貧困層の食卓を支えているとして、大量生産された安価な食品やファーストフードなどを擁護する意見があるが、世界中のどの国の貧困層も、アメリカの貧困層が食べている食事よりはるかにまともなもの —それは確かに貧しい食事ではあっても— を食べているという事実。つまりスローフードは美味しく質の高い食事はすべての人に公正でなくてはならないと考えている。そのために、単なる金持ちの消費主義に陥るのではなく、生産者と連帯してシステム自体を変えていくことが何よりも大切なのだということであった。また一つのアドバイスとして、「食べ物に払うお金を増やし、食べる量を減らす」(Pay more, Eat less)をいただいた。日本語で言えば「量より質」ということになると思う。質の悪く安い食品を大量に食べるかわりに、質の良く高い食品を少し食べるようにすれば、全体として使う金額は変わらないし、また健康的でもある。これは食べ過ぎや肥満を社会問題として抱えるアメリカにおいては、何よりも単純明快な金言ではないだろうかと思った。

学生たちも積極的にディスカッションに加わって、80分の授業はほんとうにあっという間であった。何よりもうれしかったのは、前日に大変不遜で失礼なコメントを書いてきた一人の学生が、授業が終わる頃には誰よりも興味津々で、質問したり深くうなづいたり、さらにびっくりしたことには授業が終わった後、個人的にゲストの方に歩み寄って話しかけ、最後には固く握手をしていたことである。「楽しかった?」と聞くと「うん」 とちょっと照れたような顔をして帰って行った。