Yokohama Mary: Post-War Yokohama, Japan
横浜駅の地下通路で初めて一人で彼女とすれ違ったとき、そのあまりの異様さに心臓がドキドキしたのを覚えている。実際怖かったのだと思う。舞台化粧のような白塗りの顔にフランス人形のようなドレスを着た彼女は、年齢不詳とはいえ、どう見ても齢60は越えていた。
東京の学校に通っていたのだが、私を含め数少ない「横浜組」の友人たちはお互いに彼女を見るたびに報告し合ったものである。それは他愛もない、でも非常に興奮する —つまりは都市伝説のうわさ話のような— おしゃべりであった。そしてその話のおもしろさは、どう説明しても東京在住のクラスメートたちにはわからないのである。その頃私たちは彼女を「横浜のハマ子さん」と呼んでいた。つい最近知ったのだが、私が産まれる以前に関内のシルクセンターで働いていた父たちは「キンキラさん」と呼んでいたそうである。
去年だったと思う、それきりずっと忘れていた彼女のことをなぜか急に思い出した。そして偶然か必然か、私より一つ年下の映画監督が彼女のドキュメンタリーを制作しているということを知った。インターネットには彼女に関する情報も、すべてが真実かはわからないけれども、ずいぶんとあった。彼女はハマ子さんでもキンキラさんでもなく、「ハマのメリーさん」として知られていたこと、占領軍相手の売春婦、つまり「パンパン」であったこと、しかし将校クラスしか客にとらなかったこと、ある将校の「オンリーさん」であったらしいこと、戦後50年にわたって横浜の街に立ち続け、晩年はホームレスのような状態であったこと、伊勢佐木町の古い商店の人々や野毛のシャンソン歌手永登元二郎さんなどに支えられていたこと、1995年頃に横浜から姿を消し郷里に帰ったらしいこと、そして2005年に亡くなったこと。横浜駅ですれ違ったあのときから20年たって、初めて私はメリーさんのことを知った。
初めてとはいいながら、しかし、中学生の私はメリーさんが占領軍相手の売春婦であったことにどこかで気づいていたと思う。いや、はっきりとは知らないままに感づいていた、という方が正しい。彼女のことを家で話題にした記憶はない。なんとなく、祖母が「ああ、パンパンだ」と言ったような気がするのだが、自信がない。私の実家には土蔵があって、戦後そこを何人かの売春婦に貸していたことがあったらしい。祖母は彼女たちのことを「パンスケさん」と呼んでいて、占領軍からもらった食料やらなにやらをわけてくれた、という話をしてくれたことがある。ずいぶん小さいときに聞いたことだからこれも曖昧ではあるのだが、祖母の話し振りには彼女たちに対する嫌悪感とか蔑みみたいなものはなかったと思う。そんな祖母がメリーさんのことを「パンパンだ」などと言うのは不思議だし、あり得ない気がする。いずれにしても、パンパンであれパンスケさんであれ、それが何を意味するのか私は本当には理解してはいなかった。一緒に噂話をしていた「横浜組」の友達もそうだったと思う。それでもメリーさんの来し方になにか、大人からきちんと説明してもらえるのを期待してはいけないようなことがあるのは知っていた。さらにそういう類いの話はきまって性に関することであるというのは、もうわかるほどの年齢であった。
1995年頃にメリーさんが横浜からいなくなったと聞いて、胸に迫るものがあった。ちょうど私が大学に入学した頃であるが、三菱地所の横浜ランドマークタワーが完成し、桜木町は「みなとみらい21」として生まれ変わろうとしていた。今でこそお洒落なスポットとして認識されているけれども、桜木町から関内にかけての界隈は、古い港町のハイカラな趣を残す一方、まさに港町ならではの混沌が時代に取り残された感もあり、「みらい」がイメージさせるようなツルツルピカピカした場所では決してなかった。
伊勢佐木町を取り囲むように、かつての青線地帯であり黒澤明の『天国と地獄』に出てくる麻薬街のあった黄金町、東京・山谷、大阪・釜ヶ崎とならぶ三大ドヤ街である寿町がある。告白するとそのどちらにも、私は未だに足を踏み入れたことがない。(余談であるが、前述の祖母はどんな所か見てこようと、娘時代に友達と二人で黄金町に探検に行ったそうである。)最近では大道芸のメッカとなった野毛も、私が子供の頃にはどことなく古ぼけた感じがあったし、中華街も今よりもっとずっとエスニック・タウン的だった。再開発によって、港町独特のエントロピーの高さのようなものが、もちろんまったく消えた訳ではないけれど、何となくツルツルピカピカの方向へと均されてきたような気がする。
メリーさんが消えたのはちょうどその頃だったのだ。それで改めて気づかされたのは、かつての桜木町界隈のあの雰囲気は、港があるという地理的な要因によって作られただけではなく、戦後という時代がまさに刻印されていたのだということである。終戦から50年、輝かしい「みなとみらい」は、占領軍の相手をしていた元売春婦の老婆を受け入れようとはしなかっただろう。2004年、東急東横線は横浜ー桜木町間を廃線し、みなとみらいへの直接乗り入れを開始した。
メリーさんのことと共に思い出すのが、子供の頃上野公園で見た傷痍軍人である。一人や二人ではない。道のあちこちに軍歌をかけながら茣蓙に座って物乞いをする、ぼろぼろの軍服をまとった脚のない人、手のない人、顔の焼けた人が沢山いて、怖くて怖くて、その後何度も夢に見た。あの人たちももう皆亡くなってしまったのだろうか。戦後生まれではあるけれども、今確かに思うのは、私が子供のときにはまだ戦争の痕はなまなましく、街角の生き証人となって残っていたのだ。
大学の東アジア研究センターにリクエストしてから数ヶ月、ようやく『ヨコハマ・メリー』のDVDが届いた。メリーさんのドキュメンタリーでありながら、メリーさん自身をカメラが追いかけているのではない。彼女の生い立ちを探偵のように調査するのでもない。中村監督は、メリーさんに直接的、間接的に関わった人たちの証言を紡ぎあげながら、横浜の戦後史、それも表向きの「正史」には決して記録されないであろう街と人間の歴史をたどっていく。「ハマのメリーさん」のドキュメンタリーとして、これ以上ふさわしい撮り方はないだろう。